惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉑)

 

永禄十一年十月二十五日、足利義昭は美濃へ帰国する信長へ感

状を下しました。

今度国々凶徒等、不歴日不移時、悉令退治之条、武勇天下
第一也、当家再興不可過之、弥国家之安全偏憑入之外無也
、尚藤孝・惟政可申也
     十月二十四日   御判  御父織田弾正忠殿

御追加
今度依大忠、紋桐・引両筋遣侯、可受武功之力祝儀也
     十月二十四日   御判  御父織田弾正忠殿 

義昭は信長を父と呼び、足利将軍家再興を謝し、その忠義に報い
足利家桐紋と引両筋を与えています。

これに対して、「信長公記」内には

前代未聞ノ御面目、重畳詞書キ尽シ難シ

と信長が神妙にそれを受け取った様が書かれています。

しかし相互の思惑は乖離しており、綻びは元亀元年にはやくも現れ
ました。この時は、光秀と朝山日乗を仲介として、義昭が信長の条
書を受け入れることで、事無くすみましたが、翌年の叡山焼討ちを
経てその対立は決定的になります。

光秀は、叡山攻撃の一ヶ月前に、信長から、藤孝とともに前年の条
書を義昭に遵守させるよう命ぜられています。

義昭が独自の行動を取り始めていたのでしょう。元亀三年になると、
義昭は、武田信玄らに、足利将軍に忠節を尽くす事を要望する書状
を出しはじめます。

信玄はこの要望に対して、足利将軍に忠節を尽くすとの起請文を義
昭に送ります。義昭という人物は権謀術策に長けた骨太な人間だっ
たようです。こんなことが信長に知られたら、ただではすまなかった
ことでしょう。

更に大胆にも同年五月十三日、信玄のもとに信長を追討せよとの、
義昭の御内書が届きました。

これにより、信長は浅井・朝倉・武田・本願寺と、四方を敵に囲まれ
る苦しい局面にさらされます。
 

等持院(足利氏菩提寺)にみられる足利氏家紋
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