惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊶)

 

天正四年五月大晦の「多聞院日記」には


明智煩付、従筒井彼坊舎衆七人ヘ祈祷事被申

とあり、筒井順慶が、僧坊の七人へ光秀の病平癒の祈祷を命じた
ことがわかります。
すでにこの時点での、光秀と順慶の親密さが見て取れます。

七月十四日には、吉田兼見

惟任日向守爲見廻下向坂本、帷一端持参、面
會、申刻皈宅

とあるように、坂本城へ光秀の見舞いに赴いています。面会してい
ますから、大分病状は好転していたのでしょう。

九月二十七日には、寺内町の河瀬兵部丞に、織田家は惣中を疎ん
じていないことを伝達し、勝手な陣取を禁止していますから、この頃
には、光秀は通常業務に復帰していたようです。

九月頃までは、曲無瀬道三がたびたび坂本に滞在して光秀の治療
にあたっていた、と他の史料には記されています。

やはりかなりの重病だったのでしょう。光秀は正室煕子の献身的な
看病により回復しますが、今度は煕子が病に倒れます。
「兼見卿記」の十月十日の記述には

惟日女房衆所勞也、祈念之事申來、祓・守令持参見廻了

とあり、光秀の正室が病気になり、平癒祈願を恐らくは光秀が頼んで
きたので、儀礼用具を持参し見舞いに行った、と記されています。兼
見も心配だったのでしょう。

二十四日には

惟日女房衆所勞驗氣也

とあり、病が悪化しているようで、光秀同行のもと、坂本から都の恐ら
くは施薬院全宗邸に来ていたようです。

二十七日には、惟日在京也 とありそれがわかります。
十一月に入ると、二日に兼見は村井貞勝を訪問した後

惟日女房衆所勞見廻罷向、惟日面

とあるように、煕子の見舞いに訪れ、光秀と面会しています。
光秀が、煕子の近くで看病していたことがわかります。

この時、煕子は死期を悟り吉田社に入ったとの説もありますが、確た
ることはわかりません。

この後、兼見の日記からは、二人の動向は消えますが、煕子は同月
七日に死去したと思われます。(光秀とその家族④)

坂本の西教寺には煕子の墓があり、煕子の父広忠は、坂本城落城
の際その墓前で切腹したといわれています。

光秀と煕子の夫婦仲の良さには、おおくの逸話が残されていますが、
史料からもその断片をみてとれます。

天正四年は光秀にとり、あまりいい事のない一年でありました。


西教寺 妻木煕子墓
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