惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉖


元親が斉藤利三にあてた書状は、利三の元には届いていなかったの

ではと思われます。

恐らくは、元親の家臣が、斉藤利三に届くよう、石谷光政の元に持参
したものが、利三に届く事無く、石谷家の文書群の中に残ってしまった
のではないでしょうか。

阿波国の軍事状況は、三好氏を通じて、克明に織田軍に伝わり、長宗
我部軍が阿波から撤兵していることなど、衆知のことであったでしょう。

更に阿波の海部、大西両城は土佐への入り口なので、このまま保持し
たいと、元親は言っています。

占領地である阿波の国人の、長宗我部氏からの離反がすでに起きてい
たのかもしれません。

このような状況の中、信長に何の影響力ももてない、利三にこのような
書状を送らなければならない長宗我部氏の、狼狽ぶりがみてとれます。

秀吉による調略の手が、四国一円に伸びていたのでしょう。

四国に対する信長の基本方針は軍事制圧であり、一職支配を徹底する
為には、避けて通れない信長の武辺道でもありました。