惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉟

 

武功夜話」は、土豪前野家の足跡を記録した文書群を、まとめた書物の

名称です。前野家十五代雄善の長男吉田孫四郎によって、編纂されたと
いいます。(江南市HPより)

この書物に関しては、ご存知のように、多くの問題点が指摘されています
が、ここでは触れません。

前将殿と呼ばれる前野長康(坪内光景)に関する記述の中に、光秀の事
を述べた箇所があります。

惟任日向守、この人明智十兵衛といい、美濃の源氏土岐氏の一流なり
と述べ、信長との出会いに続いて、光秀の事を「古今稀に見る器量人に侯
なり」と言っています。

福知山城受け渡し時、久しぶりに再会した、長康、光秀、細川藤孝、のこと
を「兼ねてより昵懇の間柄に侯えば」と述べ、「前将殿は、明智十兵衛殿零
落候時以来の知音の人に侯もーー」と言っています。

長山城落城後も、没落した明智氏の一員である、光秀と面識があったのでし
ょうか。そして最後に、光秀の事を「逆意の人なり、まことに人の心は計り難
く侯」と述べています。

光秀の娘玉は、細川藤孝嫡男忠興の正室となり、その長女御長は、前野長
康の子、景定正室となります。

前野長康は、その後豊臣秀次重臣となりますが、秀吉の秀次追放に連座
して、子景定ともども切腹を命ぜられます。

御長は離縁する事で難を逃れますが、玉同様に悲惨な人生を歩みました。


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