惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉕)

 

室町幕府における奉公衆の成立時期ならびにその性格、役割等については

よくわかっていません。

三代将軍足利義満の時、有力守護に対抗するために、その親衛隊(馬廻
り)が強化されたものが、五番からなる奉公衆であるといいます。

奉公衆とは、将軍直属の軍事組織であり、官僚機構である奉行衆と並列
するものであったが、各時代において軍事面だけではなく、政治、経済の
方面でも将軍の手足となり働いたようです。

いずれにせよ、将軍直轄軍であることには疑いがありませんが、徳川幕府
における旗本のように、その構成人員の身分が、固定化されていたかはよ
くわかっていません。

恐らくは、旗本身分に比較すると、その出入りには柔軟性があっただろうと
思われます。

もちろん固定化された家格の者もいたでしょうが、幕府末期になると、その
実態は崩壊していて、機能不全な状態であったと想像されます。

奉公衆は、都周辺にある将軍の直轄地に、代官としておもむき、そこからの
収入を生活の基盤としていましたが、将軍権威の失墜によりその多くを失い
ました。

足利義昭が将軍就任後、奉公衆を自分のもとに繋ぎ止めるため、空白とな
った都周辺の土地を、彼らに与えたことからもそれがわかります。

奉公衆ならびにその周辺の人々は、幕府機構の崩壊によりその生活基盤
を喪失し、新たなる権力者織田信長の登場により、復活の機会を与えられ
とも言えます。

前述しましたように、光秀は、朝廷、幕府、そして織田陣営内において、上
下関係にとらわれず自由に活動しています。なにもわからない人では、これ
らの仕事が勤まらないのは、現在と同様ではないでしょうか。
 
光秀が、幕府内、朝廷内、そして織田家家中においても、一定の人脈をす
でに形成していたことを窺わせます。