惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉖)

 

奉公衆とは、有力守護を牽制する為に生まれた、将軍直轄軍でしたが

将軍自らの親征が途絶すると、その活動分野は、訴訟、将軍直轄地に
おける徴税、幕府財政等、吏僚的な性格なものへ変質していきました。

その他にも、幕府の宗教政策、公武関係の調整、天皇、公卿の荘園の
維持等の施策に関与し、将軍の権力基盤の一翼を担っていました。

光秀が奉公衆として都で活動していたこの時期に、山科言継、吉田兼
見らの公卿、宗教人との交流が生まれました。

十三代将軍足利義輝は、三好一族勢力により、殺害されます。続く十
四代将軍義栄は都に入る事無く、義昭に将軍を取って代わられます。

義昭は僧侶出身であり、義輝時代の奉公衆とは一部を除いて、面識す
ら無かったというのが、実情であったと思われます。

しかし、将軍にとり奉公衆はその権力基盤を支える中枢であり、奉公衆
にとっても、将軍なくして存立はありえませんでした。

織田信長にとり、足利義昭は傀儡政権の首領であり、独自の政権構想
を持つことを許しませんでした。

将軍と奉公衆の間に、楔を打ち込むために送り込まれたのが、光秀であ
り、その任に耐える経験と能力を光秀は有していました。