惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉔)

 
 
 

織田信長による荘園制破壊の試みは、それに立脚した幕府奉行衆、奉公

衆らの権益を奪い、その長としての立場にあった光秀との軋轢を、信長と
の間に生じさせたとの説があります。

明智家に従属する家臣団を持たない光秀にとって、その権力構造の核に、
幕府奉行衆、奉公衆があったことはまちがいないでしょう。

光秀が畿内に政治的、軍事的影響力を持ち続けることができたのは、彼ら
の存在があり、その軍事力や文治能力は、光秀を通して信長に吸収されて
いきました。

しかし信長領国の拡大と、圧倒的な軍事力に裏づけされた一職支配の徹底
は、彼らを無力化し、足利義昭の追放により、その歴史的使命は終焉を迎え
ました。

光秀の出自が、これらと深く関りあったものであると、その明智という姓か
らも容易に推測できますが、義昭の追放後、惟任と改姓しこの組織と決別し
ます。

光秀が制圧し織田領国化した丹波国には、幕府奉行衆、奉公衆の管理す
る荘園が多くあり、守護不入の特権を享受してきました。

私個人としては、光秀の信長謀殺の主因に、これら旧政治勢力の権益回復
の試みがあったとは思っていません。

叡山を焼討ちし、本願寺との戦いに勝利し、荘園制度を保全する最大の勢
力である、宗教勢力をすでに打破している信長を抹殺したとしても、彼ら
の権益は回復しない事は彼らにしても一目瞭然だったでしょう。

黙って信長の命令を聞いていれば、彼らには以前に比べ安定した生活が確
保されており、危険を冒してまで、この勢力が信長謀殺の主体になるとは
考えにくいものがあります。

明応の政変を経て、奉公衆の集団的軍事行動はみられなくなり、将軍権威
の形骸化が進む事で、荘園制に経済的基盤を持つ幕府は全国的支配を終
了します。(明智資料㊽)(濃州余談㊴)(幕府奉行衆・奉公衆④)

それにあわせて、軍事集団としての奉公衆はその経済力を失い解体してい
きます。

将軍足利義輝が三好一族等に襲われ戦死したとき、事件後すぐに奉行衆、
奉公衆の家柄の者は、三好一族を戦勝の挨拶と恭順の意を持って表敬訪
問しています。

彼らの存在が、すでに幕府とは一線を画したものになっていたことがわか
ります。(奉公衆・奉行衆⑦)