惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉔)


永禄十三年、足利義昭と信長の関係は、早くも綻びをみせはじめます。

光秀は朝山日乗上人と共に、両者の仲介作業に従事しています。

同年三月六日、光秀は日乗上人と共に公家衆に対して、その知行に
ついて伺いを立てています。
「言継卿記」内に、以下の記述があります。

巳刻飛鳥井中将ヘ罷向、従信長以日乗上人、明智十兵衛両人、
公家衆知行分事被尋之、

とあり、言継以下十名程度の公家衆が集められています。
言継は

知行分之事少々書付之、予早罷

とあるように、知行の事を、適当に書いて、早々に帰宅したようです。

どのような意図で、このような聞き取り調査が行われたかは、不明で
すが、信長による公家衆管理が始まったのでしょう。光秀がこの時期、
吏僚的な仕事に、従事していたことがわかります。

光秀はこの時期、義昭から所領を与えられていたらしく、所領となった
東寺八幡宮領山城久世荘に関して、東寺禅職から押領であると幕府
に訴えられています。

この久世荘は東寺の荘園の中でも、その中核的な所領であり、義昭
の意図をはかりかねます。

義昭がこの頃幕府奉公衆に、闇雲に土地をばらまいていたのが、こ
の事からもわかります。


上久世荘綾戸国中神社
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