惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊷)

 

奉公衆とは、足利将軍家に直属する軍事組織であり、足利将軍の被官であり

、将軍に近侍し、その警護にあたり、戦いがあれば馬廻りとして、軍の中核を
形成しました。

九代将軍足利義尚は、奉公衆をひきつれ、守護勢力の助力をえて、六角氏の
討伐に向かいます。

六角氏は、近江にある寺社や奉公衆の所領を押領します。奉公衆の所領は将
軍から委ねられたものである以上当然な軍事行動ですが、この戦いは長期戦
に陥り、義尚は陣中で没します。

一時的に回復した公家や寺社の所領を、義尚は奉公衆に与え更なる混乱を招
くなど、迷走しはじめた幕府の政治が垣間見られます。

この時の幕府軍の編成は、守護勢と奉公衆が混在した形ですが残っており、
明智一族の明智兵庫介、左馬助政宣の名が奉公衆としてみられます。

これを「長享元年九月十二日常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」とい
い奉公衆は、当時の資料では、騎馬四百、総勢八千の規模であったようです。

日野富子は愛息義尚を陣中に見舞いますが、富子が帰京した翌日義尚は死去
し、政局は混迷し始めます。

この時代までは、奉公衆=将軍直轄軍がそれなりの規模にあり、六角氏がその
武威を避けて逃亡するぐらいですから、守護勢力に対し一定の抑止力を持って
いたことがわかります。