惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊶)

 

天正八年正月十三日に、光秀が家臣六人宛に発給した書状を再度見て

いくとその中に 面々知行ヘ入立 とあります。(四人の天下人㊴)

これは、めいめい知行地へはいりこんで との意味であり、彼らが光秀
より敵方から没収した土地を、所領として与えられた事がわかります。

この六人のうち、赤塚殿と寺本殿は、「兼見卿記」に登場します。

元亀二年正月四日の記述に

武家御所進上御祓 とあります。武家御所とは足利将軍のことで、足利
義昭を指し、お祓いをしてさしあげたとあります。

二日後の正月六日の記述に

明智十兵衛尉礼使者、二十疋、赤塚・寺内・寺本・
赤新(赤塚新右衛門尉)各来了。

とあり、寺本は寺本橘太夫と付記され、両赤塚のうち一人は赤塚勘兵衛
尉と思われます。

光秀の使者として、義昭お祓いの礼金二十疋を両赤塚、寺内、寺本の四
人が持参したとあります。

当時義昭の側近でもあった光秀が、部下の恐らくは義昭の奉公衆であっ
た四人に、兼見へ礼をさせたと思われます。

寺本橘太夫は、かなり身分が高かったとみえて、兼見は翌元亀三年二月
廿七日の記述に

寺本橘太夫茶湯令興行、罷向了 と記しており、茶の湯を開催し兼見を
招待できる格式を持った武家であったようです。

光秀がすでにこれら面々の上席にあったことは間違いなく、奉公衆の多く
義昭追放後に、光秀の支配下に入る事に、抵抗がなかったことと思わ
れます。