惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊳



六代将軍足利義教は、父義満が創設した足利将軍家直属の軍事力で

ある奉公衆制度を拡充させ、将軍権力の基盤にすえました。

足利義持は、将軍職を子の義量に譲った後も、政冶の実権を保持し
続けますが、溺愛した子義量は若くして亡くなり、義持は後継者を失
います。

義持は次期将軍を指名することなく死去し、兄弟四人のなかから、籤
引きで将軍を決めることとなり、天台座主義圓(義教)が将軍に選ば
れます。

圓は就任を固辞しますが、幕閣に押し切られ、還俗して将軍になり
ます。圓の英俊さは都でも有名で、有能な人であったようです。

義教は父義満同様、将軍権力の強化に努め、将軍直属軍である奉公
衆制度を拡充させ、有力守護の軍事力に対抗しました。

しかしその過度な強権ぶりは、守護勢力の反発を買い、領地問題にか
らみ疑心暗鬼となった赤松満祐により殺害されます。

これを嘉吉の変といい、足利将軍は、義教、義輝と二度家臣により殺
害されています。

光秀が主君信長を本能寺に襲撃した事が、それほど稀有な例ではな
いことがわかります。

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