惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊸)

 

九代将軍足利義尚の時代には、まだ大軍を率いて遠征できる実力を

幕府は保持していましたが、十三代将軍足利義輝の時代になると、長
引く戦乱の影響などで、その権威は形骸化していました。

義輝は、将軍の権威を復活すべく画策し、政所を牛耳る伊勢氏を討伐
するなど積極的に活動し、諸大名と交流し、将軍権力の再生をもくろ
みました。

しかし義輝の意図するものは、都を手中におさめる三好一族との対立
をもたらし、義輝を非業の死へと追いやりました。

この時の様子は、永禄八年五月十九日付けの「言継卿記」に以下のよ
うに述べられています。

辰刻三好人數松永右衛門佐等、以一萬計俄武家御所ヘ乱入取卷之、
戦暫云々、奉公衆數多討死云々、大樹午初點生害云々、不可説不可
説、先代未聞儀也

三好方一万が御所を取り巻き、義輝をはじめ奉公衆多数が討死したと
述べられ、その後に義輝をはじめ、戦死ならびに殺害された者五十名
程の名が記されています。

三好松永人數討死手負數十人有之云々

とあり三好方の損害は軽微であったようです。

義輝は最後まで抵抗を試みますが、畳を立てて四方を囲まれ、槍で突
き殺されるという将軍らしからぬ最後を遂げました。