惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊼)

 

元亀元年七月四日、信長は上洛します。


「兼見卿記」によると

申刻信長上洛、馬三騎俄入洛也

とあり、馬廻り三騎とともにだしぬけに上洛したようです。信長らし
い行動ですが、浅井、朝倉と一戦交えている最中で、無用心きわ
まりない話です。兼見が驚いている様子がうかがえます。

「言継卿記」内の同日の記述には

申刻織田彈正忠信長上洛、四五騎ニテ、上下卅人計ニテ被上、
遂ニ終夜上云々、直ニ武家ヘ被参之間、予則参、於北郡之楼
體御雑談被申、驚耳者也、次明智十兵衛所へ被行了

とあり、午後四時ごろ、騎上、下人あわせて三十人で上洛し、即足
利義昭の所へ行き雑談したとあります。

山科言継にとっても、無謀にも少人数で上洛し、許可も得ず将軍義
昭を訪れ、雑談する信長の行動は驚愕的でした。

その後、信長は明智光秀邸へ向かっています。夜も更けており、当
然光秀邸での宿泊となり、かなりの数の織田方の兵士が信長の警
護に当たったと思えるのですが、当然それは光秀の配下の者であり
、この時期光秀は都において、相当な軍事力を統括していたと思わ
れます。