惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊽)

 

天正九年四月十七日、吉田兼見はその日記にこう記しています。


自丹州宇津惟任日向守書状到来、當城堀井、河原者、相添
此者急度可罷下之由申来、即申付、差下返状、美濃柿百到来、

光秀から、丹波宇津城で井戸を掘るので、河原者を派遣して欲しい
との内容で書状が届き、兼見は即手配し返事をだしたとあります。

興味深いのは、美濃柿の件で 百個書状と一緒に送ってきたようで
す。

美濃柿とは、蜂屋柿の事で、美濃加茂市蜂屋周辺の特産品です。

保存がきく甘みの有る柿のことで、光秀が可児市近辺の特産品を
わざわざ送っている事は、流通や情報の未発達なこの時代、その
地方との関係性がなければ考えにくい事であり、光秀とこの地域
とのつながりをみてとれます。

美濃柿は、平安時代から資料のなかに登場し、朝廷への献上品
として使われることもありました。

美濃柿
イメージ 1