惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊻)

 

元亀二年九月三十日、信長は、寺社や惣中に対して割符を作成し、

公武御用の為、年貢米の上納を指示します。

公家領の多くは、寺社や国人領主らにより押領され、彼らの生活を
圧迫していました。この年叡山を焼き討ちした信長は、寺社等への
締めつけを強化し、上納米を強制することで彼らを管理下におき、
幕府、公家に経済的援助を与えました。

その内容が、「言継卿記」内に記されています。

爲公武御用途被相懸段別事、右不謂公武御料所并寺社本所領
、同免除之地、私領買得屋敷等、田畑一反別一升宛、従来月十
五日廿日已前、至洛中ニ條妙顕寺可至致運上候、若不依少分
被仰出隠置族有之者、永被没取彼在所、於其身則可被加御成
敗之由候也、仍如件、  
     
           九月卅日 明智十兵衛尉光秀 判
                  島田但馬守秀満 判
                  塙九郎左衛門尉直政 判
                  松田主計大夫秀雄 判

公卿らの所領を占拠している連中に対して、田畑一反につき一升を
来月十五日から二十日の間に、都二条にある妙顕寺まで上納しろ
と命じ、もし少しでも隠匿したら、その所領どころか、お前らの本貫
地までも取り上げ、成敗(処刑)すると脅しています。

月日の次に光秀の名があるので、光秀が実務責任者であったこと
がわかります。島田秀満は、村井貞勝同様信長に重用された実務
官僚でしたが、早死にしたようです。

原田直政や幕府奉行人松田大夫も名を連ねています。光秀が実務
官僚として、都での行政職務にたずさわっていたことがわかります。

この作業は、都周辺の諸事情に精通した光秀ならではのものであり、
彼が寺社、公卿双方に押さえが利く存在であったことを感じさせます。
 

妙顕寺
たびたび火災にあい、二条西洞院にあったのが
天正十二年秀吉の命で、現在地に移転しました
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