惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊾)

 

信長が上洛の折滞在した光秀の館は、都のどこにあったのでしょうか。


元亀三年正月六日、吉田兼見は普請中の坂本城を訪れ、明智光秀
面会します。

雪降、明十於坂本而普請也、爲見廻下向也

とあり、雪の降る寒い日であったようです。城の完成後、光秀は住居
を坂本へ移します。

同年九月十五日光秀は上京します。その時の様子を兼見は

明智十兵出京也、爲見廻罷向了。逗留徳雲軒(施薬院全宗)也、

と書き残し、光秀が施薬院全宗邸に、滞在したことがわかります。

この年には、光秀の都での住まいは無くなっていて、徳雲軒に宿泊し
ています。この徳雲軒が光秀邸である可能性があるのですが、場所
は、京都市左京区にある禅寺隣好院の場所で、比叡山延暦寺への
都からの登り口にあたります。

記録の中では、天正五年九月十五日にも光秀は此処に滞在し、兼見
は訪問しています。

惟日在京、罷向、果子三種持参、於徳雲軒面會、

とあり菓子を三品持参しています。

天正九年二月一日の記述に

出京之刻、於川原惟任日向守参會、惟任下向之間、自路次罷皈、
白河邊迄送之間、種々雑談、自白河帰、

河原町で、何か会合があって入京した光秀を、宿舎に帰る道すがら
白川あたりまで、雑談しながら送ったとあります。

兼見は徳雲軒に帰る光秀を、途中の白川まで送ったようで、長期に
わたり、光秀は徳雲軒を都での宿舎にしており、愛着の深さがみ
とれます。

徳雲という禅宗らしい名前に似ず、この館の主である、施薬院全宗
は、その前身は比叡山延暦寺の僧侶であり、後に秀吉の典医となり
権力を振るいます。

全宗は元亀三年の時点ですでに医師として活動しており、兼見の父
兼右を診察しています。

医術の名門丹波氏の出であり、後に従五位下に叙されます。この全
宗もよくわからないところの有る人物なのですが、光秀との交際は
深く、光秀が里村紹巴に出した書状の中で、紹巴に全宗の近況を
訊ねています。

坂本に移る以前の都での住まいを全宗に与え、そこを都での滞在先
にしていた可能性は十分あると思います。

隣好院
イメージ 1