惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊵)

 
 

「言継卿記」の天正四年五月八日付けの記述には


自南方右大將注進度々有之ーーーーー一萬計討捨云々
---さいかの孫一等討取云々

とあり、信長が雑賀孫一を討取ったと記されています

更に、翌九日には

さいかの孫一首昨日上云々、早旦勘解由小路室町武家
之御堀之端懸之云々

とあり、孫一の首が、かつての足利義昭邸の堀の端に懸けられたと
記されています。

この孫一の首に関しては他の史料にも登場するのですが、後日孫
一の首でないことが判明します。(光秀とその時代⑩)

雑賀孫一についてはよくわかっていませんが、雑賀衆とは、紀伊国
北西部を拠点とする、土豪集団の総称で、海運業を営み、本願寺
密接な関係を持ち、その主要な軍事力でありました。

おそらくは信長の直轄地となった港湾都市と、商売の利権をめぐり
争いがあり、本願寺に助勢したと思われますが、その軍事力は強
力であり、彼らの持つ資金力の強大さを窺い知ることができます。

石山合戦での本願寺勢の主力が雑賀勢であったとの記録はありま
せんが、この時代すでに孫一が都で話題にのぼる程の有名人であ
ったことがわかり興味深いです。

光秀はこのような強敵と対峙し、前年からの越前、摂津、丹後と転
戦につぐ転戦で疲れたのか、摂津の陣中で発病します。

「兼見卿記」の五月廿三日付けの記述に

惟日以外依所勞皈陣、在京也、罷向、道三療冶云々

とあり、大阪から都へ戻り、曲直瀬道三のところで治療を受けたと記
されています。

廿四日には

惟日祈念之事自女房衆申来、撫物以下之事以一書返答

とあり、光秀の正室煕子から病気平癒祈願の為の問い合わせがあり、
お祓いの時用いる、人形(ひとがた)や小袖に関して書面で返答した
とあります。

更に廿六日には

入夜自惟日女房衆、以大中寺祈念之事申来、為
惟日御見廻自左大將殿隼原御使云々

とあり、再度光秀正室から志賀郡代大中寺をもって、祈念に関して
問い合わせがあり、同日信長から使者をもって光秀の病状を訪ねてき
たとあります。信長も正室煕子同様光秀の病状を心配していたのでし
ょう。

戦の最中であるのにもかかわらず、正室や信長からの細やかな気遣い
が感じられます。


曲直瀬道三
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