惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉔)



三方原の戦い」の全貌はよくわかっていません。現地を訪れてみる

浜松城と古戦場のあいだが至近距離であることに驚きます。

浜松城に近づく武田軍に対しての戦前日の軍議では、城内に篭城し、
武田軍の通過を待つ慎重派と、城外での一戦を望む決戦派に分かれ
救援にきた織田勢を含めて、戦意は低かったようです。

しかし家康は城外での戦闘に固執し、城の北方に陣を構えます。

元亀三年十二月二十三日、武田軍は浜松城を無視する形で、刑部に
向かい、三方原を進軍します。武田軍の通過を待ち、背後から攻撃す
べき、との家臣からの注進に家康が苦慮する間に、進軍する武田主
力と徳川軍の間に入り、徳川軍の動きを監視守備していた武田軍守
備部隊に、一部徳川軍部隊が無断で攻撃を開始し、戦闘が開始され
ました。

徳川軍は軍律が乱れており、陣形も構成できず、鶴翼の陣のまま戦
闘に突入し、徳川軍の攻撃を受けて進軍をやめ、魚鱗の戦闘隊形を
とった武田軍と激突します。

徳川軍の総兵力は、武田軍の三分の一に満たず、奮闘にもかかわら
ず、最終的に側面攻撃を受けて崩壊します。

多数の兵力をもって鶴翼の陣形をとり、少数の魚鱗陣形の部隊を包
囲殲滅する、という兵法のセオリーから逸脱した真逆な戦闘が展開さ
れ、徳川軍は叩きのめされました。

家康は殿軍のなかにいて、四方を武田軍に囲まれ、何度も切腹をしよ
うと思いますが、なんとか浜松城に逃げ込みます。

帝国陸軍参謀本部が作成した、「三方原の戦い」における徳川軍の
将士姓名表からわりだした戦死率は、380人中201名であり、なんと50
%以上もあり、徳川家内で名字帯刀を許された武士団の損害の甚大さ
をみてとれます。

翌二十四日、信玄は首実験をおこない、討死した織田方の武将平手
長政の首級を岐阜の信長のもとに送りつけます。

それに対して信長は、この戦は、家康の若気の至りによっておこなわれ
たものであり、それを止められなかった長政が首になって帰還するのは
当然である、と訳のわからないことを述べています。

信玄はこの戦闘の後、急速に病状が悪化し、三河鳳来寺で静養につと
めますが回復せず、甲斐への帰還途中伊那駒場で死去します。

信長は又しても大きな危機を乗り越えました。信玄の死はその極秘工
作にもかかわらず、二週間後には、上杉謙信の知るところとなり、また
たくまに諸国に知れ渡りました。



武田信玄(晴信)
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