惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉞)

 

長篠の戦いは、長篠城を囲んだ武田軍に対して、家康からの救援要請

を受けた信長が後詰に向かい、武田軍と織田・徳川連合軍が設楽原で
主力決戦を行った結果、武田軍が壊滅的敗北を喫したものです。

信長に主力決戦の意図があったかはよくわかっていません。野戦では
考えにくい柵を作る為の木材と縄を事前に用意しており、防御に主眼を
置いています。

この戦いの全貌には諸説ありますが、確実なことは極めて狭いエリアで
の戦闘であり、鉄砲を有効な武器として活用する事ができたことにあり
ます。

信長公記」によれば、武田軍は長時間にわたり複数回、柵に向かい突
撃を繰り返し、打撃を受けています。

信長は、織田軍の陣容を分からないようにして、柵の後方に展開させた
とあります。武田軍は、織田軍の実数を把握していなかった可能性があ
り、無謀とも思える突撃を繰り返し消耗していき、撤退時に追撃を受け
崩壊しています。

刀根坂における、朝倉義景の敗北過程と類似したものがあり、縦横無尽
に戦闘形態を構成することの出来る、信長の軍事天才が遺憾なく発揮さ
れた戦いでした。

私としては、信長にとって越前での本願寺との戦いの方が優先順位が上
で、長篠の確保が主目的であり、その目的が達成できれば、兵を消耗
する事無く、戦わず帰還する狙いだったと思えます。

武田軍が無謀な柵への突撃を繰り返したのは、信玄古参の武将と勝頼と
のあいだに意見の相違があり、それが内部分裂を引き起こし行われたと
の説がありますが、多数の死傷者を生む可能性のある突撃を複数回行っ
たのは異常であり、武田軍の作戦遂行能力が劣化し、情況把握が困難
であったからと思えます。

要するに「信長公記」にあるように

御敵入レ替ヘ侯ヘドモ、御人数一首モ御出デナク、鉄炮バカリヲ相加ヘ
足軽ニテ会釈、ネリ倒サレ、人数ヲウタセ、引キ入ルルナリ

足軽が鉄砲を撃ち加え、名立たる武将を討ち取る状態であり、信玄が聞
いたら絶句するような無残な戦いでした。信長は幸運にも大勝利を勝ち
取りました。

この頃から、信長は領国の拡大にあわせて、軍制の近代化に着手してお
り、豪商らから武器の供出を命じています。

千宗易宛黒印状には

就越前出馬、鉄炮之玉千到来、遥々之懇志喜入候、
                               信長(黒印)

とあり、鉄砲の弾千を利休が送ったことに礼を述べています。


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