本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉓)
天台宗座主覚恕は、信長による叡山焼討ち時、叡山におらず難を免
で死去します。
世の天台座主に就任します。
信玄の西上作戦には、仏法擁護の戦いという側面がありました。
て出た背景には、足利義昭による度重なる出陣要請があり、浅井氏
いに一撃を加えるものでした。
元亀三年十月三日、病気でニ日遅れて甲府を出発します。その軍勢
は北条氏の援軍を含めて総勢二万七千であったといいます。
は別隊を率い、信州伊那口から東美濃へ侵入を開始していました。
信玄が信長との主力決戦を目論んでいたどうかは不明ですが、後日
三方原で、家康に対して壊滅的打撃を与えていますから、浅井・朝倉
勢が背後を脅かし、本願寺勢の合力をえれば、織田軍は二分され充
分に勝機はあったと思われます。
又信玄が伊那駒場で死去するのは翌年四月であり、そのあいだ信
玄は病気をおして三河で戦機をさぐっていますから、信長との対決を
視野に入れた本格的な侵攻戦であったことがみてとれます。
朝倉義景は江北へ軍を進め、浅井氏とともに織田軍と対峙します。
ここまでは筋書き道理でしたが、ここで信じられない事がおこります。
村城と明智城陥落の報せをうけて、岐阜防衛の為に軍を美濃へひき
あげます。
朝倉義景は信長の撤兵をみると、追撃することもなく越前へ軍をひき
ます。信長に一撃を加える絶好な好機は失われ、この報せをうけた
信玄はあっけにとられたといいます。
この朝倉義景という人の行動は理解しづらく、人心の離反を招き、八
ヶ月後信長により無残な最期を迎えるのですが、この時兵の損失を
考えず、追撃戦を敢行すべきであったと、刀根坂の戦いで信長の苛
烈な追撃戦により軍が崩壊した時、義景は後悔したことでしょう。
信玄はこれにひるむ事無く、十二月十九日遠州二俣城を攻略し、二
三方原古戦場跡碑