惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉓)

 

天台宗座主覚恕は、信長による叡山焼討ち時、叡山におらず難を免

れ、その後甲斐武田氏の庇護をうけ、都に帰ることなく天正二年甲府
で死去します。

覚恕法親王は御奈良天皇の皇子で、正親町天皇のただ一人の弟
宮でした。延暦寺山門派の門跡寺院曼殊院で得度し、後に第166
世の天台座主に就任します。

武田信玄の継室三条の方は、三条氏の出身であり、嫡男武田義信
の母であり、実妹如春尼は本願寺十一世顕如正室でした。

信玄の西上作戦には、仏法擁護の戦いという側面がありました。

その頃労咳(肺結核)に犯されていた信玄が、あえてこの作戦に打っ
て出た背景には、足利義昭による度重なる出陣要請があり、浅井氏
、朝倉氏、本願寺そして松永久秀らと連繋し、傍若無人な信長の行
いに一撃を加えるものでした。

元亀三年十月三日、病気でニ日遅れて甲府を出発します。その軍勢
は北条氏の援軍を含めて総勢二万七千であったといいます。

山縣昌景率いる先発隊はすでに、東三河に向かっており、秋山信友
は別隊を率い、信州伊那口から東美濃へ侵入を開始していました。

信玄が信長との主力決戦を目論んでいたどうかは不明ですが、後日
三方原で、家康に対して壊滅的打撃を与えていますから、浅井・朝倉
勢が背後を脅かし、本願寺勢の合力をえれば、織田軍は二分され充
分に勝機はあったと思われます。

又信玄が伊那駒場で死去するのは翌年四月であり、そのあいだ信
玄は病気をおして三河で戦機をさぐっていますから、信長との対決を
視野に入れた本格的な侵攻戦であったことがみてとれます。

朝倉義景は江北へ軍を進め、浅井氏とともに織田軍と対峙します。
ここまでは筋書き道理でしたが、ここで信じられない事がおこります。

十二月二日、信長は本願寺門徒の美濃侵入と、秋山信友による岩
村城と明智城陥落の報せをうけて、岐阜防衛の為に軍を美濃へひき
あげます。

朝倉義景は信長の撤兵をみると、追撃することもなく越前へ軍をひき
ます。信長に一撃を加える絶好な好機は失われ、この報せをうけた
信玄はあっけにとられたといいます。

この朝倉義景という人の行動は理解しづらく、人心の離反を招き、八
ヶ月後信長により無残な最期を迎えるのですが、この時兵の損失を
考えず、追撃戦を敢行すべきであったと、刀根坂の戦いで信長の苛
烈な追撃戦により軍が崩壊した時、義景は後悔したことでしょう。

信玄はこれにひるむ事無く、十二月十九日遠州二俣城を攻略し、二
十二日東三河に侵入すべく三方原に到着します。


三方原古戦場跡碑
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