惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊺

 

信長の朝倉軍に対する追撃戦の中で、最も激戦であった刀根坂付近

の戦いにおいて、朝倉軍は、その軍事力の中核であった一門衆らを失
い、「信長公記」によれば、刀根坂から敦賀までの追撃戦のなかで、
織田軍が討ち取った首の数は三千以上であったといいます。

この時、刀根坂付近で敵を掃討していた信長馬廻り兼松又四郎(正吉)
は、討ち取った首をもって信長に参上しました。

その時、又四郎の足が素足で、血に染まって真赤であるのを信長は見
つけ、腰に吊るしていた足半を又四郎に与えその武勲を賞します。

足ハクレナイニ染メテ参リ侯ヲ御覧ジ、日比御腰ニ付ゲサセラレ侯
御足ナガーーーーーー金松(兼松)ニ下サル。------冥加ノ
至リ、面目ノ次第ナリ。

とあり、

信長公、御武徳両道御達者ノ故、

と続き、信長の家臣に対する、信賞必罰の態度がみられ、織田軍主力
の遅れを叱責する姿と好対照をなしています。

足半は、戦闘態勢にはいった兵士がみにつける踵部分が欠落した草履
で、長距離歩くのには適さないが、戦場では石などに足をとられず軽
快に動く事ができ戦闘に適していました。

信長がいっも足半を戦場で腰に吊るしていたということは、いっでも自
ら最前線へ赴く気概が感じられ、戦闘者信長の本質をみてとれます。


兼松又四郎拝領足半(秀吉清正記念館)
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