惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉘)

 
 

天正元年八月八日、岐阜城へ帰還していた信長は、阿閉貞征の織田

方への内応を聞き、軍を近江へ進め、小谷城を攻撃します。

休む間もない信長の行動力に驚嘆します。織田軍は、武田氏の当面の
脅威から脱し、大軍をもって浅井・朝倉氏にあたり、朝倉義景は内紛
の中で、軍を発し木本・多部山に布陣します。

信長は小谷城と朝倉軍を遮断する為に、山田山に陣を構えます。

八月十二日、浅井方の浅井対馬が内応し、翌十三日信長は太尾山の
朝倉軍を攻撃します。敗色濃い朝倉軍は夜陰に乗じて撤退を開始しま
すが、それを察した信長は追撃戦を開始し、朝倉軍を撃破します。

これで、朝倉軍主力は壊滅し、義景は一乗谷城へ逃げ帰りますが、そ
こにも、織田軍の追撃の手が及び、十八日一乗谷から賢松寺へ退去し
ます。

二十日、義景は一族の朝倉義鏡の裏切りにより、賢松寺で自害に追い
込まれ、その首は、龍門寺に本陣を構えた、信長のもとに届けられまし
た。一乗谷は織田軍により徹底的に破壊し尽され、朝倉一門の多くが
惨殺されます。

信長は休むまもなく、軍を江北に進め、二十六日虎後前山に布陣して、
浅井軍と対峙します。二十七日、秀吉は小谷城京極丸を奪取して、浅
井長政、久政父子の連繋を遮断して各個撃破し、久政居城を落とし久
政を自害に追い込みます。翌二十八日には、小谷城本丸も落ち、長政
も自害します。浅井父子の首級は当日、獄門に晒す為都へ送付されま
した。

足利義昭追放後、一ヶ月で浅井・朝倉氏は消滅し、歴史の上から抹殺
されますが、その最後はあまりにもあっけないものでした。

信長の勝因は、撤退する朝倉軍に対する、徹底した追撃戦にあり、その
速度の速さに、織田軍主力は取り残され、信長から叱責を受けます。

この戦に賭ける信長の意気込みがみえますが、大将が独断で先行する
事のほうが異常であるとも言え、これに口答えした佐久間信盛に対し

佐久間右衛門、涙ヲ流シ、サ様ニ仰セラレ侯へドモ、我々程ノ内ノ
者ハ、モタレマジクト、自讃ヲ申サレ侯。信長御腹立チ斜ナラズ、其
ノ方ハ、男ノ器用ヲ自慢ニテ侯カ。何ヲ以テノ事、片腹痛キ申シ様哉
ト、仰セラレ、御機嫌悪侯。

と「信長公記」内にあり、これが後日の佐久間信盛追放劇へと繋がる
のですが、こんな上司を持った部下達は苦労の連続であったと想像で
きます。(光秀とその日常⑦)


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