惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㉝)

 

天正三年五月二十四日、吉田兼見坂本城に光秀を訪問してい

ます。光秀が長篠戦に参陣していたとの説がありますが、「兼見
卿記」の記述をみれば、光秀は畿内にいたことがわかります。

廿四日 壬戌

明十爲見舞下向坂本了、薫衣香十袋持参、今度三州表之儀自
信長對明智被仰上御折帋、令披見也、悉討果之儀如定也、公
私安堵了

「光秀に会うため坂本を訪問した。服に忍ばせる香袋を十個持参
した。このたび三河長篠での戦について、信長から光秀に対して
頂いた御折紙を、二人で開けて見た。武田勢を残らず討果たした
とのことで光秀も私も安心した。」と述べています。

折帋は手紙のことで、信長からの戦勝の報せがが光秀のもとに
届いたのでしょう。披は開けることで令は尊敬語で、光秀ととも
に恭しく折りたたんである密封した手紙をあけ、織田軍勝利の
報せに光秀と兼見は安心したとあります。

二十一日に長篠戦があり、織田方は武田方を打ち破ります。信
長の手紙は兼見の坂本滞在中に届いたのでしょう。公を光秀と
するかは判断に迷いますが、私は光秀を指すと思います。

武田氏の西進圧力を取り除いた信長は、西方の脅威である毛
利氏に対抗する為に、光秀らに九州の名族の名を与え、心理
戦を展開していきます。


織田信長朱印状(細かく折りたたんである事がわかります)

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