惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊲

 
 

信長の自筆書状として確認されているものは一点のみですが、そ

の可能性がある書状は他にもみられます。(明智資料④)

天正五年の三月十五日付けと思われる長岡藤孝等宛黒印状と言
われるものは、細川藤孝、惟住(丹羽)長秀、滝川一益、光秀の
四人にあてた物で、全員が読み終えた後に、藤孝が預かり、細
川家文書のなかに残ったのでしょう。

内容は以下のようで

猿帰候テ、夜前之様子具言上候、先以可然候、又一若ヲ差遣候
----各辛苦令察候、今日之趣徳若ニ可申越候也

 長岡兵部大輔とのへ 惟住五郎とのへ 滝川左近とのへ
 惟任日向守とのへ              信長(黒印)

      
とあり、猿とは他でもない秀吉の事で、いい年をした立派な武将
猿帰候と呼ぶ、信長と秀吉の距離の近さが感じられます。

雑賀攻めの信長本陣であった若宮八幡宮に、秀吉が前線から
来て前夜の戦況を報告したとあり、油断なく敵情を探る事を命じ
、皆の苦労をねぎらっています。

一若、徳若と信長近習の固有名詞があり、信長直筆である可能
性が高いと思われます。

秀吉の顔が猿面であったことは、宣教師や秀吉の顔を直接に見る
機会を持った、当時の武将が残した史料の中で確認できますが、
光秀らにはとのへと述べ、秀吉は猿ですから信長にとって、やは
り秀吉は可愛いい存在だったのでしょう。


信長黒印と猿の記述(下写真一番右)
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