本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊱)
敦賀へと向かいました。
前年には、長期にわたる伊勢長島での、一向門徒との戦いに信長
は勝利し、一揆勢の籠った屋長島、中江の両城を火攻めにして、二
万に及ぶ男女を焼殺したといいます。
「信長公記」には、
御赦免ノ御佗言申スト雖モ迚モ程アルベカラザルノ条、倭人懲ラシ
メノタメ、干殺ニナサレ年来ノ緩怠、狼藉、御鬱憤ヲ散ゼラルベキノ
旨ニテ御許容コレナキトコロニーーーーー
とあり、投降を許さない信長の姿勢がみえます。信長は門徒の安全
を保証した、として城から退出させ、撃ち殺させています。
これに対して一揆勢は、鎧も着けず、裸で織田方に斬りこみ、織田
一門の多くが戦死し、それに激怒した信長は、屋長島、中江両城に
籠る一揆勢焼殺を命じています。
なにか他に方法があったのでは、とも思えるのですが、信長の残虐
性は越前においても、遺憾なく発揮されました。
が羅列しており、その数は十箇所におよび、信長の偏執狂的な性
格がよく現れています。
山々谷々無残所捜出、くひをきり候ーーーー千余人切捨之、生捕
百余人、これも則刎首候ーーーーー柴田・惟住方より千余切之由
注進候ーーーー佐久間甚九郎ニテ五百余、則くひをきり候ーーーー
と延々と続いています。
伊勢長島に続いて、越前各地でも大量殺戮が行われていたことがわ
かります。
朝倉義景を滅ぼし手に入れた越前を、どさくさに紛れて乗っ取られた
信長の怒りも少しは理解できますが、越前ではこの時点で目だった
抵抗はなく、先鋒を受け持った光秀と秀吉は、順調に作戦を遂行し
加賀まで進軍しています。
信長は二十六日岐阜へ戻り、十月十日上洛します。そして西方へ
の領土拡大戦を策定し、丹波、丹後両国の平定を、光秀に命じます。