惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊱)



天正三年八月十二日、信長は越前一向一揆討伐の為、岐阜を発し

敦賀へと向かいました。

前年には、長期にわたる伊勢長島での、一向門徒との戦いに信長
は勝利し、一揆勢の籠った屋長島、中江の両城を火攻めにして、二
万に及ぶ男女を焼殺したといいます。

信長公記」には、

御赦免ノ御佗言申スト雖モ迚モ程アルベカラザルノ条、倭人懲ラシ
メノタメ、干殺ニナサレ年来ノ緩怠、狼藉、御鬱憤ヲ散ゼラルベキノ
旨ニテ御許容コレナキトコロニーーーーー

とあり、投降を許さない信長の姿勢がみえます。信長は門徒の安全
を保証した、として城から退出させ、撃ち殺させています。

これに対して一揆勢は、鎧も着けず、裸で織田方に斬りこみ、織田
一門の多くが戦死し、それに激怒した信長は、屋長島、中江両城に
籠る一揆勢焼殺を命じています。

なにか他に方法があったのでは、とも思えるのですが、信長の残虐
性は越前においても、遺憾なく発揮されました。

京都所司代村井貞勝宛信長印判状写には、くひを切り候 の文言
が羅列しており、その数は十箇所におよび、信長の偏執狂的な性
格がよく現れています。

山々谷々無残所捜出、くひをきり候ーーーー千余人切捨之、生捕
百余人、これも則刎首候ーーーーー柴田・惟住方より千余切之由
注進候ーーーー佐久間甚九郎ニテ五百余、則くひをきり候ーーーー

と延々と続いています。

伊勢長島に続いて、越前各地でも大量殺戮が行われていたことがわ
かります。

朝倉義景を滅ぼし手に入れた越前を、どさくさに紛れて乗っ取られた
信長の怒りも少しは理解できますが、越前ではこの時点で目だった
抵抗はなく、先鋒を受け持った光秀と秀吉は、順調に作戦を遂行し
加賀まで進軍しています。

信長は二十六日岐阜へ戻り、十月十日上洛します。そして西方へ
の領土拡大戦を策定し、丹波、丹後両国の平定を、光秀に命じます。