惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊷)

 

天正五年二月十日、信長は細川藤孝宛に朱印状を送り、雑賀衆

攻撃を命じます。

泉州近辺可罷立候、左候者、我々則可進発候条、彼面行之儀
者可申付候、-----惟任・荒木比分申付候間、可相談候也

             長岡兵部大輔殿       信長(朱印)

とあり、光秀、荒木村重にも申付けたから、現地での作戦について
相談するよう命じています。

光秀が長期の闘病生活に終わりを告げ、最前線に復帰したことが
わかります。

信長公記」の二月十八日の記述には

山谷乱入、中筋道通、長岡兵部大輔、惟任日向守打チ入ラレ
候ノトコロ、雑賀ノ者ドモ罷リ出デ、相支ヘ、一戦ニ及ブ

とあり、光秀と藤孝が、共同で雑賀衆と対峙し、戦闘を交えていま
す。

戦局は、織田の大軍をもってしても雑賀衆の完全制圧はむずかしく
、表面上は雑賀方の降服の形をとり、停戦と至りました。

信長公記」には

雑賀表、多人数、永々御在陣。忘国、迷惑致シーーーー
土橋平次、鈴木孫一、岡崎三郎大夫ーーーーーー連署
以テ、誓紙ヲ致シ、大阪ノ儀、御存分ニ馳走仕ルベキノ旨
、御請ケ申スニツキテ、御赦免ナサル

とあり、結局は双方ともに痛み分けといったところで、小勢で織田
の大軍と互角の勝負を行った、雑賀衆の精強さに注目します。

雑賀衆に、本願寺攻撃に協力するよう命じていますが、従う気は毛
頭なく、多くは本願寺とともに織田方と再度対峙しますが、この時
点では雑賀衆は分断されており、かっての勢いは衰えていました。

六月十二日、光秀は雑賀五郷と土橋平次宛に書状を出し

尚以、急度御入洛義御馳走肝要候、委細為上意、可被仰出
候条、不能巨細候

とあるように、反織田派である土橋平次に対して、急ぎ上洛して信
長に謁見し、誠意を見せよと命じています。

佐久間盛重、荒木村重らとともに光秀が雑賀郷支配を行っていたこ
とがわかります。

織田方の雑賀表での長期間の戦闘は、摂津、河内での兵力の手薄
さを招き、本願寺や毛利氏の調略に応じた松永久秀が、又しても信
長に叛旗を翻しました。



雑賀攻防戦絵図
イメージ 1