惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊼)

 

天正六年八月、光秀娘玉は細川忠興に嫁ぎます。


ともに十六歳であり、信長の意向に添った婚姻であったといいます。

婚礼は藤孝居城の山城勝竜寺城で行われた、と「細川家記」にあり
、花嫁の乗る馬の轡は明智秀満がとり、城外で松井康之が受け取
った、とあります。

これで、忠興は一人前の武将となり、信長から単独で書状をもらう
身分となります。

先度下石彦右衛門尉越置、鴈遣之付而、尤悦入候、父子番
替可然候ーーーーーーーー

        正月十二日  長岡与一郎とのへ   信長(黒印)

とあるのが、信長からの最初の書状で、同日付の、藤孝宛のものと
内容はほぼ同じです。信長の忠興に対する期待の大きさを見ること
ができます。

光秀長女革手の婚姻の時も、同様な婚礼の儀式が有岡城で執り行
われたと思われますが、その詳細は不明です。この時も秀満が馬の
轡をとっていたのかもしれません。

革手は荒木村重嫡男村次に嫁いでいたのですが、光秀の村重に対
する説得工作の過程で明智家に戻されます。

光秀がどのような感慨をもったかはわかりませんが、村重が有岡城
を脱出して尼崎城に入った時、光秀は信長に、村重の処遇について
嘆願し、尼崎、花隈の両城を開城すれば、助命するとの許可をもらっ
ています。

本当に信長がこれを履行するかどうかはあやしいものですが、光秀
は縁戚関係を持ったものとして最善を尽くしました。

しかし光秀の努力は報われず、村重はそれを受け入れませんでした。

松永久秀荒木村重の、信長に対する謀反の根底にあるものは、佐
久間信盛の追放、徳川信康の自害と、密接に関連するものであり、
敵対勢力との抗争が一段落すると、織田領国と家臣団の締め付けを
恣意的に行う、信長の傲慢さがその一因でした。


花隈城跡
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