惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊸)

 
 

天正五年八月十七日、松永久秀、久通父子は摂津天王寺に設けた

本願寺に対する付城から離脱し、大和信貴山城に立て籠もります。

信長はその報せに驚き、松井友閑を使者に立て、謀反の理由を尋ね
、希望があれば述べるよう説得しますが父子はそれに応じません。

信長が軍事行動を起こすのは九月二十二日であり、長期にわたり懐
柔工作が続いたのがわかります。

信長は久秀に近い武将に書状を送り分断し、信貴山城を孤立させた
上で、信忠を総大将として松永方に攻撃を開始します。

岡周防守宛朱印状には

松永右衛門佐事、今度号雑説、奇事於左右、信貴籠城、言語
道断之次第候、---------

とあり、信長はこの謀反の中心人物は右衛門佐(久通)であって、
久永はそそのかされたと見ています。

十月一日、光秀と細川藤孝、忠興父子は大和片岡城を攻撃し、落城
させます。この時忠興は十五歳で、十三歳の弟昌興とともに城に一
番乗りして、信長から感状をもらっています。(明智資料④)

「兼見卿記」の十月四日付けの記述には

松永右衛門佐人質自安土上洛ーー明日渡洛中成敗云ゝ人質
両人

とあり、松永方人質二人が成敗されることを述べ、翌五日には

於六条川原成敗云ゝ

とあるように、十二歳と十四歳の人質二人が処刑されました。
信長公記」にはこの二人の処刑について長い記述があります。

俄には信じ難いのですが、信長はこの時村井貞勝に命じて、この
二人の命を助けようとした、とあります。

それならば最初から処刑の命令を出さなければと思うのですが、
この二人の処刑は、都の人々の涙を誘ったのは事実のようです。

十月十日、信忠や光秀らは、信貴山城に総攻撃をかけ、城は松
永一族とともに焼け落ちました。

「兼見卿記」には

松永在城之城シギ落城、父切腹自火、悉相果云ゝ、時刻
光源殿御罰眼前------

と記され、将軍義輝殺害の天罰が当たったと言っています。
(光秀とその時代⑫)

反乱の主体が子久通であったとしても、そこには久秀と共有する
なにかが有ったはずで、信長家臣団に組み込まれた、松永一族
織田家中における将来の展望の見つけにくさが、毛利・本願寺
からの調略を受け入れてしまったのかもしれません。



信貴山城跡
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