惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀戦闘史㊲)

 

天正四年一月十五日の「兼見卿記」の記述には


丹州黒井之城、萩野惡衛門在城也、旧冬以來惟任日向
守取詰在陣也、波多野令別心、惟任在陣令敗軍云々

とあり、前年の冬以来、丹波黒井城の萩野惡衛門(赤井忠衛門)を
攻城中の光秀が、八上城波多野秀治の裏切りによって敗走した
と述べています。

一月十八日の記述には

自高嶋七兵衛尉上洛、今度丹州之義爲見舞下向云々
北白川在陣也

とあり、織田信澄が高嶋の新城から上洛し、陣中見舞いの為丹波
に向かうべく、北白川に在陣し兵を整えてます。

消耗した戦力を補充する為に信澄は丹波へ向かい、二十一日それ
と入れ替わりに、光秀は都へ戻ります。

惟任日向守自丹州上洛、直坂本下向之間、至白川罷出、
今度不慮之儀驚入之由申了

とあり、兼見は白川まで出かけ、光秀の思いがけない敗戦を慰めて
います。

二月十六日には、兼見は坂本城を訪ね、光秀と夕食を共にしていま
す。十八日に光秀は

惟日下向丹州、以使者音信也

とあるように、丹波へ出陣したと使者を以て兼見に伝えています。

しかし戦線は膠着状態に陥り、目だった戦闘はなく、四月、信長は
光秀を再蜂起した本願寺勢に対応すべく大阪に派遣します。

伊勢長島、越前と拠点を失った本願寺勢は、大阪での戦闘に総力
を結集し、織田軍は苦戦を強いられました。




本願寺跡地
イメージ 1