惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊾

 

「兼見卿記」内には、時折謎めいた名前の人物が登場します。

天正七年八月八日の記述に

先年祈念之義濃州加児六郎左衛門尉息彦法師、爲湯治令上
洛、爲礼来、青銅百疋持来--------僧一人出座也

とあるように、美濃の加児六郎の息子彦法師が上洛して先年
の礼に青銅百疋を持参しています。この時も兼見は斎服に着
替え祈祷を行っています。

先年の礼とは、天正四年のことで

九月四日、東美濃可児六郎左衛門息嫡男彦法師相煩---
祈念之儀申夾、以返事之旨先下向了

彦法師が怨霊に祟られ病んでいるので祈祷を頼まれた、とあ
ります。この時も使僧が来ており、廿五日に兼見は祈念を開
始します。

濃劦可児六郎左衛門祈念、神休札勧請ーーーーー打家中札、
守一、天度三百六十座、神供六膳、修行三座

と念入りな修行であり、五日後の廿九日結願します。
この僧にお札等を渡し祈念は終了しました。

この可児六郎左衛門とは、美濃国可児郡にあった塩河郷を
本貫地とし、室原城を居城としていた可児秀行であると思わ
れます。

彦法師はその嫡男盛行である可能性が高いのですが、何
故この人物がわざわざ兼見のところに祈念を依頼してきたの
か、そこには、やはり光秀と可児郡のあいだに関係性があっ
たのではないか、と想像力が膨らみます。

塩河八幡神社棟札には、檀那可児六郎左衛門秀行の名があ
り、同じく天正十三年の棟札にも、大檀那可児郡勝六郎盛行
の名が見え、この可児氏が塩河一円を治めていたことがわか
ります。

可児秀行は後に森可成に仕えますが、妻木にしろこの可児一
族にしても、東濃地方を本貫地とする名前が「兼見卿記」のな
かに、光秀との関係性の中で登場します。

関白とも対面できる多忙な兼見が、美濃の一土豪にすぎない
妻木氏や可児氏を丁重に扱っているのは、やはりそこに光秀
との繋がりがあったからでしょう。
(光秀戦闘史㊽)(濃州余談㉞)(光秀の出自と前半生②)

このことからもやはり光秀が、東美濃と深い関わりをもつ武将
であったことを再認識することができます。

可児室原城
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