惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉝)

 
 
 
 

天正八年十二月二十九日に、正親町天皇典待であり、誠仁親王生母の

万里小路秀房女(清光院)が急死します。

悲しみに暮れる天皇親王を慰め、都に活力を蘇らす為に馬揃えが開
催されたと、の説がありますが、この一大セレモニーはやはり、信長に
よる対本願寺戦の勝利と、武家・朝廷の寺社に対しての優位性を発露
する場であった、との認識が妥当と思われます。

華美な衣装をまとった武士たちのパレードや、化粧をして着飾った信長
の様子からもそれがうかがわれます。

誠仁親王は、二度目に開催された馬揃えに、やっと女官たちと一緒に顔
を出してており、この儀式が慰労的な色彩にないものである、とわかり
ます。

このあたりまでは、光秀や細川忠興らによる馬揃え開催は順調でしたが、
何を血迷ったのか朝廷は、信長に左大臣推任を働きかけます。

天皇、朝廷としては、単純に信長にお礼をしたかっただけでしょう。三月
一日に勅使が派遣されますが、信長は辞退します。

信長は天下平定後改めて官位を受ける、と明言しており、天正六年右大
臣を辞しており、信長の対応は当然すぎるものでした。

そこを読み違えた朝廷は再度勅使を派遣し、左大臣を推任しますが、信
長は不快感からか、正親町天皇の譲位をその条件にもちだしてきます。

信長としては、対武田、毛利戦の前に誠仁親王即位礼を、すましてしま
おうとの強い希望があったのでしょう。

しかし親王や庭田、観修寺、中山ら公卿達は信長からのこの申し出に藪
蛇状態に陥り、対応に苦慮します。

結局天皇の譲位は取り止めとなり、信長の左大臣就任も立ち消えとなり
ました。

経済的な問題があったのでしょう。信長からの経済的援助がなければ、
即位礼開催は不可能であり、左大臣になってやるから譲位、即位の礼
自前でやれ、という信長の強引さが見え隠れします。

光秀や細川忠興らは、頻繁に安土と都を往復しており、調整にあたった
のでしょう。この頃吉田兼見は、光秀、妻木、細川藤孝らと面会して
おり、その日記のなかに天皇譲位に苦慮する公卿らの様子が記され
ています。(光秀戦闘史Ⅱ⑥)

天皇の素直な感謝の気持ちに腹を立て、強引に自我を押し通す信長の
姿に光秀らは何を感じたのでしょうか。

いずれにせよ、信長はこの一連の事件に不快感をもっており、この後一
年半近く安土から都へ行くことがありませんでした。





万里小路秀房和歌短冊
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