惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊼

 
 

家忠日記」の中で、松平主殿助家忠は、本能寺における信長生害の

様子をこう記しています。

六月三日、雨と書いた後、都から上司の酒井左衛門尉からの、家康の
西国出陣の際の指物や旗について指示を受けています。

そして酉刻、大野より注進があり

京都ニテ上様明知日向守、小田七兵衛別心ニテ御生カイ候由

と、上様である信長が、光秀と織田信澄の裏切りにより自害したと述
べています。この時点で家康はすでに信長の家臣であると、家忠ら徳
川一門に準ずる者達でさえ認識していたことがわかります。

五日には

七兵衛殿別心ハセツ也

とあり、織田信澄の裏切りであると述べています。
更に八日の記述に

小田七兵衛、去五日ニ大阪ニテ、三七殿御成敗之由候

とあり、信澄が織田信孝により討取られた、と述べています。

時系列的にみても、本能寺襲撃直後から、織田信澄が信長殺害の首謀
者の一人であるとの噂が飛び交っていたことがわかります。

この信澄の一生はすでに述べていますが、光秀の娘が信澄に嫁いだの
は、天正六年二月、義父磯野員昌が織田家を出奔した直後であったと
の説があります。(光秀とその日常⑤)

天正五年前半には、荒木村重嫡男村次に長女革手を嫁がせ、天正六年
八月に、玉を細川忠興正室としていますから、継室であったといわれる
信澄室となる光秀の娘は、次女だったのでしょう。

正室煕子を亡くした直後に、バタバタと娘を嫁がせる光秀の真意はわか
りませんが、筒井順慶とはすでに何らかの姻戚関係を形成しており、こ
れ以降、信長の後ろ楯のもと、光秀が織田家重鎮として急速に力をつけ
ていく下地が作られたことがわかります。



家忠日記(六月三日)
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