惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊲)

 
 
 
 

戦国末期、摂関家天皇・朝廷とは独立した経済的基盤を有しており

、その経済力が、朝廷祭事等に貢献することはありませんでした。

困窮した天皇の暮らしと比較して、彼らのそれは安定しており、独自の
政治性を時代の変換点で発揮しています。

摂関家のうち、九条家二条家一条家は、藤原道家の子から、分流
して家門を形成しており、その関係性は密接であり、同族意識をはらむ
ものでした。

又、近衛家鷹司家は、藤原家実の子から派生しており、九条流同様
に一門を形成し、その活動には連繋がみられました。

室町時代この二派のせめぎ合いは、時の幕府の権力者、将軍、寺社
内の争いと、連動して複雑な状況を展開していきます。

大雑把に言えば、九条流本願寺と密接であり、近衛流は将軍家との
姻戚関係を形成して、幕府末期には、それぞれの領土保全に努めてい
ました。

しかし、時の権力者の動向に、両派ともにふりまわされており、九条家
近衛家の当主ともに、関白を罷免されたり、都からの出奔を余儀なくさ
れています。

近衛前久は、信長上洛時、足利義昭に兄義輝殺害の張本人と目され、
命を狙われ都を出奔します。又、九条稙道は上洛した信長に対し、横
柄な態度で接した為、信長の不興を買います。

出奔した前久は本願寺に居住しており、なぜか教如は前久の猶子とな
ります。本願寺は、足利将軍家と不仲になった近衛派と結ぶことで、逆
に将軍家と密接になった九条派と距離をおきました。

目先だけの集合離散が繰り返され、信長と足利義昭が対立すると、前
久は信長との関係性を深め、信長のとりなしで都に復帰します。

このように摂関家両派は、時代の流れを読み違え、天正三年時には、
すっかり政治の場から退出しており、信長の庇護の下、生計を成り立た
せていきます。(光秀と朝廷・公家社会⑥⑧⑩⑪)

天正十三年、九条稙通は、近衛家が無断で羽柴秀吉に藤原姓を与えた
と争論します。その役目は藤原氏嫡流である九条家が担うものであると
の理由ですが、両派の政治性がこの次元まで低下したことを如実に表し
ています。



藤原道家
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