本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㉜)
天正七年(1579年)七月、イエズス会東インド管区巡察師ヴァリニヤーノ
は来日し、当地区の最高責任者として、日本布教の様子を視察していま
す。
彼の滞在予定は二年でしたが、帰国に先立ち、信長との謁見を希望しま
す。彼の宿舎南蛮寺は、信長の都での宿泊場所である本能寺に近く、会
見は長時間に及んだと記されています。
信長は彼に同伴している黒人の下僕に興味津々であったといい、都で開
催される馬揃えの行事に、彼ら一行を招待します。
馬揃え当日、巡察師たちには立派な桟敷が用意され、多くの信者も同席
していました。
騎馬武者によるパレードの中心にいた摂津、河内などの国衆には、キリ
シタンが多く含まれており、高山右近に見られるように、積極的な布教
活動を展開していました。
信長は先日の会見時、巡察師から贈呈された、濃紅色のビロード製の椅
子を持参し、自らの行列の前を、四人の従者に担がせ歩かせます。
そして桟敷の前に来ると、馬から降りて、その椅子に座ってみせました。
なぜ信長はこれほどのサービスを、巡察師をはじめキリシタン達に行った
のかは、その理由の一つとして、パレードに参加した摂津、河内、和泉等
の国衆の中に多くのキリシタンが含まれていたからと思われます。
ば不祥事が発生する可能性もあり、その代わりにキリシタン国衆が参加し
たのでしょう。
伴天連嫌いの正親町天皇が、その事実を知っていたかどうかはわかりま
せんが、天皇はこのイベントに大喜びで、信長のもとに勅使を派遣しそ
の素晴らしさを絶賛しています。
ヴァリニヤーノ