本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊳)
弘治三年(1557年)、正親町天皇(方仁親王)は、父後奈良天皇の死去に伴
こなわれていたのを、別の日に行うことが通例となっていましたが、正親町
んでした。
教に深く帰依し、文学に造詣の深い父、祖父と比較して正親町帝には世間
の荒波と闘うエネルギッシュさを感じ取ることができます。
危機にあった天皇家の再生への道を力強く進みます。
は資金供給の道を完全に断たれました。
いましたが、その程度の陣容すら維持できず、公家たちは生活の為都を離
れ地方に移住することを余儀なくされていました。
正親町帝は、この危機に際し、多くの戦国大名に庇護を依頼します。即位
へと格上げされます。
画策しており、えげつなく資金獲得に励んでいます。
係は密接でした。(光秀と朝廷・公家社会㉒)
信長がいまひとつ噛み合わない原因なのですが、現実主義者信長は忍耐
を重ね天皇を政治利用していきます。
又経済のエキスパート信長は、多大な資金援助を天皇家と公家らに継続
的に行い、彼らを最終的に完全な管理下に置きました。(光秀と朝廷・公
家社会⑪)
信長の管理下、朝廷の祭事等から離脱していた摂家らも、朝廷業務に復
帰し、天正九年当時、朝廷はあるべき姿に再生していました。
天皇、朝廷にとり、信長はかけがえのない存在であり、彼らが信長を失え
ば、否応無く、再崩壊の道をたどることとなりました。
は存在せず、上洛以来、相互に最大限に利用しあいながら、誠仁親王へ
の譲位問題等を駆け引きの材料にしつつ、天皇家は今後進む道を探って
いたのでしょう。(光秀と朝廷・公家社会㉕)
り、当時では平成天皇以上の高齢でした。
政治に翻弄され、なんら決定権を持ちえず、苦悩する天皇の姿がそこに
ではなかったと記されています。
後柏原天皇宸翰