惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊳)

 
 
 

弘治三年(1557年)、正親町天皇(方仁親王)は、父後奈良天皇の死去に伴

い、天皇の位を受け継ぎました。桓武天皇の時から、同日に即位礼がとりお
こなわれていたのを、別の日に行うことが通例となっていましたが、正親町
天皇天皇家の資金不足から、三年間の長きわたり即位礼を開催できませ
んでした。

父、後奈良天皇、祖父、後柏原天皇同様まぎれもない貧乏天皇でした。仏
教に深く帰依し、文学に造詣の深い父、祖父と比較して正親町帝には世間
の荒波と闘うエネルギッシュさを感じ取ることができます。

葬式の費用すら工面できない天皇家の実情が、天皇を強くしたとも言える
のですが、父後奈良天皇の清廉潔白さとは正反対に、天皇は自然消滅の
危機にあった天皇家の再生への道を力強く進みます。

さらに将軍足利義輝の殺害は、足利幕府の実質的崩壊をもたらし、天皇家
は資金供給の道を完全に断たれました。

当時天皇家と朝廷は、三十人ほどの女房衆と中流公家らにより運営されて
いましたが、その程度の陣容すら維持できず、公家たちは生活の為都を離
れ地方に移住することを余儀なくされていました。

正親町帝は、この危機に際し、多くの戦国大名に庇護を依頼します。即位
礼の費用を献じたのは毛利元就でしたが、戦国大名以外にも、本願寺
天皇に対する重要な献金元であり、本願寺天皇との関係から門跡寺院
へと格上げされます。

天皇献金元である仏教勢力の要請により、キリスト教宣教師追放を
画策しており、えげつなく資金獲得に励んでいます。

天皇の弟覚恕法親王は、天台宗座主として比叡山延暦寺にあり、その関
係は密接でした。(光秀と朝廷・公家会㉒)

信長上洛後もこの三者天皇の関係は密接であり、このあたりが、天皇
信長がいまひとつ噛み合わない原因なのですが、現実主義者信長は忍耐
を重天皇を政治利用していきます。

又経済のエキスパート信長は、多大な資金援助を天皇家と公家らに継続
的に行い、彼らを最終的に完全な管理下に置きました。(光秀と朝廷・
会⑪)

信長の管理下、朝廷の祭事等から離脱していた摂家らも、朝廷業務に復
帰し、天正九年当時、朝廷はあるべき姿に再生していました。

天皇、朝廷にとり、信長はかけがえのない存在であり、彼らが信長を失え
ば、否応無く、再崩壊の道をたどることとなりました。

天皇と信長の間には、その関係を清算しなければいけないような問題点
は存在せず、上洛以来、相互に最大限に利用しあいながら、誠仁親王
の譲位問題等を駆け引きの材料にしつつ、天皇家は今後進む道を探って
いたのでしょう。光秀と朝廷・公家会㉕)

現平成天皇の譲位に対するお悩みと、正親町天皇の苦しみと努力がな
にかだぶってみえることがあります。天正九年、正親町天皇は66歳であ
り、当時では平成天皇以上の高齢でした。

政治に翻弄され、なんら決定権を持ちえず、苦悩する天皇の姿がそこに
あり、正親町天皇に先立って誠仁親王が死去した時、その悲しみは尋常
ではなかったと記されています。
 

 

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