惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と朝廷・公家社会㊱)

 
 
 

室町時代以降、確認できる朝廷の儀式は、主だったものに


(1月)後七日御修法 (2月)祈年祭  釈奠 (4月)賀茂祭 (6月)
月次神今食 (8月)釈奠 (9月)例祭 (11月)鎮魂祭 新嘗祭 (
12月)月次神今食 追儺 

があります。その他にも祈念穀奉幣、御斎会、岩清水臨時祭、例幣
、女叙位等の朝廷行事がありましたが、応仁の乱以後、財政難から
開催が困難な状況となり、稀に行われることがあっても、摂関家等上
席公卿の参加がないことが多く、朝儀とはいえないものでした。

現代の天皇家の行事は、明治以降に制定されたもので、当時とは
かなり趣が異なりますが、祈念祭、新嘗祭など内容を同じくするもの
がみられます。

釈奠とは儒教祭事であり、当時においても朝廷内に中国王朝の統治
理念が生きていたことがわかり、興味深いものがあります。

賀茂祭、岩清水臨時祭は、公武ともに重要な祭礼であり、朝廷にとり
幕府から継続的な資金援助が得られ、特に賀茂祭は、幕府末期まで
継続して開催された希少な朝儀でした。(光秀と朝廷・公家社会㉚)

しかしこれすらも開催不能な状況に陥り、幕府、朝廷の協調行事から、
庶民の祭へと転化していきます。

このように幕府の衰退は天皇、朝廷儀礼の開催不能をもたらし、その
存立すら危うくするものとなっていました。

そこに登場したのが織田信長ですが、信長の上洛以後、天皇、朝廷
の財政事情は格段と改善され、朝廷儀礼の再興がなされ、その総決
といえるものが、天正九年に開催された馬揃えでした。

天正七年七月、正親町天皇は光秀に対し、丹波国山国荘にある御料
所を回復したとして馬、鎧を与えます。

八年十月には山国荘からの新米が都に届き、禁裏は喜びに沸いたと
あります。これらの資金は、翌九年開催された馬揃えにおける、朝廷の
準備金として使われた可能性が高く、光秀が馬揃えの奉行として任ぜ
られる下地となっています。(光秀戦闘史㊿)

光秀という人物は、天皇、朝廷にとり、極めて近いところにいる人物で
ったことは間違いないのですが、一部の公卿らの日記に、その動向
が記されているのみで、光秀と正親町天皇誠仁親王近衛前久らと
の関係性はわかりにくいものとなっています。