惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊷

 
 
 

永禄十一年(1568年)九月、織田信長足利義昭を奉じ上洛し、南禅寺妙心寺

、東寺等の寺院に禁制を下しています。信長と織田軍主力は東福寺に布陣し、他
部隊も各寺院に陣を敷きました。信長は都を武力制圧すると、同月二十六日には
洛中法制を発布し諸政を管理下に置きます。

翌月四日には、信長は正親町天皇に二万疋を献上し、更に八日にも禁裏御不便
として同程度を内々に天皇に渡しています。

信長の銭の戦争が都でもすでに開始されていることがわかり、翌年二月末には、撰
銭令を発布し、信長の経済戦争の実態が畿内でも確認できます。

かって都の支配者であった足利氏や三好氏の金融政策とこの法令は大きく異なり
、それまでは排除の対象であった悪銭を、使用時には、良銭(精銭)を加付すること
で流通にのせるという奇策であり、本来排除すべき銭貨を含め、銭値を三区分しそ
こにそれぞれの換算レートを決めて、支払い時には半分は良銭とし、残りをプレミア
付の悪銭とするものでした。

恐らく織田家には、尾張、美濃で獲得した程度の低い銭貨が潤沢に存在していたこ
とがこの法令発布の根底にあったと思われますが、他方には、貨幣を過剰に供給し
都の経済活性化を促す側面も併せ持っていました。

信長は矢継ぎ早に、天皇、公家に対し資金援助を行い、自己の経済政策を大消費地
である畿内で展開していきます。

光秀は、信長上洛時から、これら経済政策や朝廷再編成作業に深く関っており、彼の
出自のいずれかに、それを可能にする要因があったと思われます。



織田軍旗印になった永楽通寶銭
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