惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㊲)

 

齋藤利三は、丹波国黒井城の城代として、その周辺地域の支配を

光秀から委ねられていました。

白毫寺には、天正八年七月二十三日付けで、寺へ戻った僧侶に対
して諸夫役を免除する旨の、齋藤利三による発給文書が残っていま
す。

春日局(福)は、ここ黒井城で誕生したといわれますが、確たる事は
定かでありません。

父利三が敗死したのち、福は三条西家に匿われたといいます。利三
正室は、稲葉良通(一鉄)と三条西実枝の娘との子で、その縁で、
福は母と共に、祖母の実家に逃げ込む事ができたのかもしれません。

三条西家は、清華家に次ぐ格式を誇る家柄で、一国人領主にすぎな
い稲葉家との縁戚は不自然なものが残りますが、春日局と三条西家
との関係は、家光の時代になっても深く続いていきます。

いずれにせよ、元関白近衛前久でさえ、秀吉からの追及を逃れて逃
げ回る中で、一公家にすぎない三条西家が、首謀者の一人とみなさ
れた利三の家族を匿うのは、あまりにも危険な行為に思えます。

福は、利三の実兄石谷頼辰を頼り、長宗我部氏の庇護を受け、土佐
の岡豊城で成長したとの説があります。こちらのほうがなにか納得で
きますが、徳川方の記録では抹殺されています。

将軍家光の乳母として、春日局は、親豊臣であった長宗我部氏との
関係性を嫌い、その過去を消し去り、三条西家との関係性を強調す
ることで、自己の勢力拡大に努めたのかもしれません。


黒井城跡
イメージ 1