惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉖)

 
 
 
 
永禄八年五月十九日の足利義輝最後の様子は「言継卿記」内に詳細に記
されています。

辰刻三好人数松永右衛門佐等、以一萬計俄武家御所乱入取巻之
戦暫云々、奉公衆数多討死云々、大樹午初點御生害云々,

とあり、続いて、伊勢加賀守貞助が足利家伝来の御小袖、御幡等櫃三個
を、禁中へ運び込んだとあります。(明智資料㊼)

貞助は、政所執事伊勢氏の庶流であり、御小袖御番衆石谷光政とともに
難を逃れたのかもしれません。

これに戦死したものの氏名が続いて記載されます。

慶壽院殿、畠山九郎十四歳、大館岩石十歳、摂津いと十三歳と年少の者
や女性を含め、その他奉公衆とおもわれる者をいれて、三十数名が記され
、あとは女房衆つきの武士や小者雑兵が、多数戦死したとあります。

義輝とともに戦死した奉公衆の姓には、一色、上野、細川、進士、荒川、
沼田、朝日等が見られます。

奉行衆としては治部三郎左衛門が唯一戦死しているのが興味深いです。

この時、義輝に近侍していた者はほぼ戦死しており、足利幕府の陣容が、
この程度の人数で構成されていたのには、寂しさを感じます。

この事件をもって、幕府は実質的崩壊をとげますが、三日後、将軍を殺し
た張本人のもとを挨拶に訪れる、大多数の奉行衆、奉公衆の家柄の者の
姿が、それ如実に物語っています。(奉行衆・奉公衆㉕)

 
 
伊勢貞助返答記
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