惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と幕府奉行衆・奉公衆㉗)

 
 
 
永禄八年(1565年)、足利義冬を擁する三好・松永勢力は、将軍足利義輝を将
軍御所に強襲し、殺害します。

しかしこの両勢力は、半年後には、主導権をめぐり対立、戦闘状態に突入して
義冬の後継者である義栄は、松永久秀討伐令をだし、松永氏と決別しました。
明智資料⑬)

この分裂状態がなければ、義栄の将軍就任には問題がなかったのですが、松
永氏の経済力を喪失した義栄勢力は、朝廷への献金にも事欠くありさまで、朝
倉氏の庇護をうける義輝の弟義昭に、従五位下・左馬頭任官で先を越されまし
た。

しかし、摂津の国富田に拠点をもうけていた義栄は、三好氏の軍事力を背景と
して、将軍就任に不可避な左馬頭に就任し、朝廷に対して威圧と交渉を繰り返
して、永禄十一年、第十四代将軍に就任しました。

四年間の空位をへて、新将軍が誕生したのですが、同年義昭を奉じて上洛した
織田信長に、三好氏勢力が、畿内での活動を軍事的に制圧されることで、義栄
は阿波に逃れ、まもなく病死します。(光秀戦闘史⑦)

義輝時代までは、規模は縮小したとは言え、伝統的な奉行衆、奉公衆を軸とした
幕府政治が存在したのですが、義輝の死と、この空白の四年間により、幕府を
支える二本の柱は、完全に有名無実化iしました。

伊勢貞為は、祖父、父の仇である義輝側の義昭に対抗してか、義栄のもとに帰
参していますが、政所再興とは言えず、松田藤弘、中澤光俊の二名が奉行人奉
書を二通、作成しているのみです。

将軍の安全を確保する奉公衆に関しては、その存在を、確認することはできませ
ん。
 
義栄の政権は幕府機構の再建どころか、彼自身の短命さゆえに、見るべきもの
は何もありませんが、その対抗馬であった義昭は、したたかであり、足利氏最後
の将軍にふさわしい人物でした。