惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

明智資料㊽

 
 

元弘三年(1333年)五月、南朝方の赤松円心らの軍勢がせまる中、六

波羅探題北方北条仲時らは、御伏見上皇花園上皇光厳天皇を伴
い、鎌倉への避難をはじめました。

近江の国に入ると、探題南方北条時益は野伏の攻撃に会い戦死し、
仲時らも行く手を阻まれ、進退窮まって番場にある蓮華寺に入り、一
族郎党四百三十余名とともに自刃しました。

太平記にはその時の様子が詳しく記されています。

彼ら北条氏一門、主従が蓮華寺において集団自決したのには、蓮華寺
が、当時時衆の大寺院であったことに関係があると思われます。

時衆は戦場において、医療技術者の役目を負うのみではなく、死に行く
者に十念を授け、又死体の埋葬業務も担当していました。

蓮花寺には、陸波羅南北過去帳が残っており、当寺で自刃した武将の
名前が記されています。これは自刃が整然と行われたことを証明し、こ
の寺が、自らの骸を適切に処理し、供養されると北条一門らが認識して
いたことがわかります。

武士の一人一人が名前を述べ、時衆がそれを記した後、自刃していっ
たのでしょう。死体を忌み嫌う、当時の風習とは異なった集団自決が蓮
華寺で行われたことが理解できます。

彼らの死体は、時の住職同阿のもと埋葬されたと伝えられ、現在も墓石
が残ります。

本能寺で光秀に討たれた信長や森乱の骸は、時衆蓮台山阿弥陀寺
僧清玉により、火葬ののち阿弥陀寺に埋葬されたと同寺古記録に残さ
れています。

阿弥陀寺は秀吉からの寄進を断り、秀吉の怒りを買い、廃寺に追い込
まれますが、同阿、清玉ともに時衆の潔さを感じ取ることができます。

信長は本能寺で爆死し、その骸は霧散したとのことですが、光秀が時衆
阿弥陀寺住職清玉に、本能寺で戦死した織田方の骸の処理、供養を依
頼したとも考えられます。

これを証明する一次史料はありませんが、こう考えた方が何か整合性が
あるように思われます。


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