惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀と秀吉⑧)



織田信長という稀有な個性が主宰する、織田スクールの優等生が光秀と秀吉であり
ました。光秀は信長の意を受け、織田政権内への幕府行政機構の取り込みに注力
しその簒奪に寄与しました。朝廷対策にもその経験から、細川藤孝らと参画し、信長
の意向通りに天正九年の馬揃えを成功に導き、朝廷へ圧力をかけ、来るべき公武
一体政権にむけて、その基盤作りを行いました。

光秀の異例ともいえる織田家中での抜擢は、丹波等での軍事指揮のみならず、こ
ういった計略とか策謀とかを、信長の意向通りに実行できたことにあると思います。
そういった光秀の能力と経験を、信長は高く評価したのでしょう。

柴田勝家らの武辺者には、不向きな仕事内容であったと思えます。
恐らく信長の頭脳回路を、明瞭に光秀は分析できたのでしょう。信長の望む形に
結果をだせたと思いますが、それができたもう一人が秀吉だったと思います。

美濃攻略時の秀吉の、兵站方面の働きには、信長は目を見張ったでしょう。そう
いった戦場での働きのみではなく、この二人の人並みはずれた知略、才覚が、
信長には必要だったと思えます。勝家と喧嘩になり、勝手に戦線を離脱した秀吉
を、信長が許したのも、秀吉の能力を高く評価していたからでしょう。

しかし、光秀、秀吉ともに、信長の考えていることが、理解できるがゆえの苦悩が
存在していたと思えます。

       次は、本能寺襲撃の謎にせる(光秀と信長移ります



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