惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉗)

 

織田軍事政権は、その政権運営機能は未成熟であり、どのような組織

形態であったかさえよく分かっていません。

豊臣政権になり、はじめて姿を現した新興武家政権の形が、信長のめ
ざしたものだったのかは、今となってはわかりません。

こういった状況のなかで伝統的権威である、朝廷そして有力寺社との交
渉事を、長い経験のある幕府奉公衆が、織田政権下においても担うこと
になるのは、当然の事でした。

その中心にあったのが、光秀と細川藤孝であったのですが、安土に本拠
地を移した政権には、独自の文治官僚が生まれつつありました。

光秀を中心とする、旧奉公衆の集団はその存在意義を弱め、誠仁親王
中心とする、朝廷内の織田グループと、信長の馬廻りや小姓あがりの側近
グループが文治官僚として政権の中枢を担い、この両者が、新たなる公武
合体政権への道程を歩み始めていました。

信長が最終的に目指した政権構想は、平清盛足利義満がもくろみそして
到達しえなかったものと、近似していたと思えます。

存在意義を弱めつつある、光秀らのグループは、信長の朝廷政策に不安を
隠しきれない反誠仁親王グループに、接近して行ったのかもしれません。