惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑲)


千葉介常胤を祖とする東氏は、歌道において群を抜いた名門武家でした。

各時代の当主が詠んだ歌は、「続後撰集」にはじまり、「続千載集」そし
て「新続古今集」に選出されています。十一代当主常縁は、切紙を用い、
古今和歌集」の正統な解釈を伝授する「古今伝授」を考案しました。

この古今伝授は常縁から、連歌師宗祇に伝えられ、そして、宗祇から三
条西実隆へとその解釈が伝授されます。

子が幼かった実隆から、将来その子に伝授するという約束で細川藤孝
が「古今伝授」を引き継ぎました。

連歌は多人数で行う詩形で、厳密なルールがあり、その上に全体的な
広がりをもつ世界を構成する、その時代の教養が必要とされる形式で
した。

前句を引き継ぎ、次句を詠む作者に配慮した上で、自己の世界を展開
し、連歌全体の世界観を構成することが求められ、これを付合といい、
連歌を形作る重要な概念でした。

光秀が藤孝のもとで、その連歌会に参席した初期の頃、藤孝は光秀が
前句と次句を、うまく結びつけることが出来なかったと述べています。

光秀にはそれだけの和歌の教養が無かったのでしょう。光秀はその指
摘に対して、自分の歌を直し、一層の研鑽を積んだといいます。努力
家の一面がみてとれます。

天正十年五月二十八日の、丹波愛宕山西坊威徳院での、愛宕百韻興
行は、光秀にとって最後の連歌会になりました。


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