惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその時代⑳)


戦国時代愛宕神社は、軍神を祭る寺社として、武士の信仰の対象であった。

愛宕山白雲寺はその中心であり、勝軍地蔵を本尊とする、神仏習合の寺社
でありました。白雲寺内には、本宮の他に、奥院と六つの宿坊がありました。

光秀が連歌会を開いた、威徳院西坊もその一つで、光秀が都で信長を討っ
た知らせを、細川藤孝、忠興父子に真っ先に伝えたのも、六宿坊の一つ福
壽院下坊の妙菴でした。細川家と下坊との繋がりは深いものがあり、妙菴
の弟子が藤孝の部下となり戦いに参加しています。 (光秀と秀吉⑦)

愛宕百韻に、光秀の部下として参加している、東行澄は古今伝授の考案者
東常縁の子、常和の孫になります。

威徳院西坊住職東行祐は、行澄の親族であり、光秀が詠んだ歌の真意を行
澄同様、当然理解していたものと思われます。

信長討伐成功の知らせは、真っ先に愛宕山に届いたことでしょう。西坊から
の知らせで、下坊の妙は飛脚を藤孝のもとに走らせます。

光秀は言葉には出さなかったが、信長討伐の意思を連歌興行の中で述べ、
光秀近辺の人々は、それを彼らなりに理解した思われます。

行澄と藤孝は当然熟知の中であったでしょう。行澄や妙菴を通じて、光秀
の意思は藤孝にも、事前に伝わっていたかもしれません。

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