惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㊻

 

天正五年八月廿四日の「兼見卿記」の記述には、荒木村重から

摂津有岡城内に山王社を造りたいので、神体の事を兼見に頼む
、と清原三位を通じて言ってきたとあります。

兼見はこれに対して、社の大小等を尋ね、書状をしたため鈴鹿
尉助に持たせて摂津へ赴かせます。

鈴鹿は廿六日には、兼見の所に戻り、社殿の形や拝殿の様子を
兼見に伝えています。兼見は一般的な物であると感想を述べて
おり、大工に神体設置に関する道具の作製を申し付けています。

これ以前には、荒木として名が記されることはありましたが、そ
の交際を窺わせる記述はありません。
面識のない相手に、重要な儀式である神体についての伺いをた
てることは考えにくく、荒木村重と兼見の間になんらかの関係性
が生まれていたと考えられます。

私はそれは光秀長女革手が、村重嫡男村次正室として嫁いだ事
にあると思っています。摂津領内にも山王社に関する神事をとり
行える社殿はあり、その関係者は多くいたと思われますが、兼見
に頼んだのは光秀との縁戚関係が出来たことにあると思え、清原
枝賢という、細川藤孝や兼見と縁戚関係のある人物を介しての依
頼であることがそれを裏付けます。(光秀とその家族③)

婚姻の時期は定かではありませんが、天正五年の前半ではない
でしょうか。兼見はこの頃眼病を患い、記述もままならない状態
であったのか、三月から六月まで日記を残していません。

「細川家記」によると、妹玉が細川忠興に嫁いだのは、天正六年
八月ですから、時期的には妥当性があると思えます。

正妻煕子を亡くした光秀に対して、信長は有力武将との縁組を仲
介し、その労をねぎらったのかもしれません。

しかしこの婚姻が、光秀にとって思いもよらない問題を引き起こ
すとは、この時点では誰にも想像できませんでした。


明智倫子(革手)
地味な存在でしたがいい演技
でした。(NHK大河)
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