惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

濃州余談㉔


元亀二年、岩村城主遠山景任は病死します。後継者のなかった遠山家は

信長六男御坊丸を養子に貰い受け、景任正妻お直(おつや)の方が後見
となり女城主が誕生します。

お直の方は、信長の父信秀の妹であり、叔母にあたり、織田家にとり、この
岩村の地が、いかに重要であったかがわかります。

元亀三年、武田軍は三方ヶ原で、家康軍を撃破し、秋山信友の別働隊が岩
村城に攻めかかります。よく防戦しましたが、孤立無援な状態の岩村城は開
城し武田方におちました。

御坊丸はその後、人質として甲斐へ送られますが、よくわからない事に、お
直の方は敵将秋山信友の妻となります。いろいろあったのでしょう。

天正三年、長篠で信長は武田軍に圧勝し、嫡男信忠を岩村城へ向かわせ
攻略を開始します。

援軍の見通しのたたない、秋山信友は、城兵の助命を条件に降服を申し出
て、信長もそれを許します。

しかし開城後、信長は前言をひるがえし、信友、お直の方、重臣三人を、信
忠本陣近くで、逆さ磔にかけるよう命じます。

又開城となり、甲斐や信濃に帰還する兵士とその家族三千人ほどを、前後
から挟み撃ちにして惨殺したといいます。

お直の方らが処刑された場所は、現在大将塚として残り、江戸時代、領主
の丹羽氏により、この五人の霊を弔うために五仏寺が建てられましたが、
現在は残っていません。


大将塚
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