惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉑)

 

歌舞伎演目「時今也桔梗旗揚」は本外題を「時桔梗出世請状」といい、文

化五年(1808年)、江戸市村座で初演されました。
四代目鶴屋南北作、初演時は全五幕でした。

「絵本太功記」などの、歌舞伎演目をもとにつくられていて、現在は「饗応
の場」「愛宕山連歌の場」等、二、三幕が演じられる。
その内容は、主君小田春永(織田信長)から陰湿ないじめを受ける、武智
光秀(明智光秀)がそれに耐え切れず、謀反に及ぶというものです。

光秀妻煕子が、貧しさのため黒髪を売ったという故事にのっとり、劇中でも
春永が多くの人の前で、その事を暴露して光秀を辱めます。
又、近江、丹波の光秀領を取り上げるとか、光秀の欲しがっていた名刀を
他人に与えたりとか、いじめを春永は光秀に繰り返します。

その他、春永は森蘭丸に、光秀のひたいを鉄扇で打たせたりとかの場面
があり、光秀を追い込んでいきます。

思いつめた光秀が愛宕山の宿舎に帰ると、連歌師紹巴は謀反を進言しま
すが、光秀は紹巴を逆に切り捨てます。

そこへ春永からの上使が来ます。光秀は近江、丹波両国の召上げと察し、
死装束に着がえ、切腹して抗議すると伝えます。
まさに切腹という時に、光秀は手裏剣で上使の一人を倒し、もうひとりを
切り捨てます。そこに光秀家臣が駆けつけ、本能寺で武智軍が春永を討
ったと伝えます。

本能寺に向かおうとする光秀を、妻皐月は引き止めます。しかし光秀は「
天下を我が物とし、栄華を極める」と言い残し、自害する皐月を無視して、
本能寺に向かいます。

信長、光秀研究が進む以前の、本能寺の変の実態はこのように考えられ
ていて、それはこの歌舞伎演目の影響下にありました。


武智光秀
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