惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(光秀とその日常㉓)



戦国時代末期、派手な衣装や奇抜な行動をとる人の事を、「かぶき者」とい

いました。この「かぶき者」の感性を取り入れた「かぶき踊り」が、都で流行
し、これが歌舞伎の名前の由来となりました。

織田信長は、若い頃はこの「かぶき者」の代表選手のような存在でした。
信長公記」はこう記しています。

其ノ比ノ御形儀、明衣ノ袖ヲハズシ、半袴、ヒウチ袋、色貼多付ケサセ
ラレ、御髪ハチャセンニ、クレナイ色、モエギ色ニテ巻キ立テ、ユワセラ
レ、太刀、朱ザヤヲサセラレーーーーーーーーー

今風に言えば、袖なし丸首に半ずぼんで、腰周りには、カラフルな火打ち
袋をちゃらつかせ、髪はロングで、派手な色の糸で作った組緒で巻き、茶
筅の形にして立たせています。

更に、朱鞘の太刀をさして、大通りを飲み食いしながら歩いたといいます。
同じかぶき者の前田利家などを引き連れて、津島の街中を闊歩したこと
でしょう。

万松寺での父信秀の葬儀の時も、

長ツカノ太刀、ワキザシヲ三五ナワニテマカセラレ、髪ハチャセンニ巻キ
立テ、袴モメシ候ハデ仏前ヘ御出デアリテーーーーー

といつもの服装のまま参席しています。

又、舅斉藤道三と初対面の時も、

髪ハチャセンニ遊バシ、モエギノ平打ニテチャセンノ髪ヲマキ立テ、ユカタ
ヒラノ袖ヲハヅシ、ノシ付ノ太刀、ワキザシ二ツナガラ、長ツカニミゴナワニ
テマカセ、フトキ芋ナワ、ウデヌキニサセラレ御腰ノマワリ、猿ツカヒノ様ニ
火燧袋、ヒョウタン七ツ八ツ付ケサセラレ、虎革、豹革四ツカワリノ半袴ヲ
メシーーーーー

とあり、半ズボンが虎革、豹革となり、いつもよりおしゃれしています。
この時は、さすがにこれではと思ったのか、後で着替えています。

このことから、信長がかぶきルックを好み、公私問わずこの格好をしていた
ことがわかります。

しかし、この信長の服装をよくみてみると、基本的にはミリタリールックであ
ることがわかります。

茶筅に結い上げた髪は、兜をすぐ着用でき、兜の上の穴から髪をだし、固
定するのに便利です。
袖なし服は鎧を着けた時暑くなく、着やすいし、半ズボンも同様です。

太刀と脇差を縛り、固定して抜きやすくし、鉄砲の為の火薬を腰にぶらさげ、
いつでも戦闘にはいれるよう備えています。

身内に疎まれ、重臣から背かれる、孤独な信長の必死な姿がそこに見えて
きます。


万松寺での信長
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