惟任日向守光秀

日本中世史における明智光秀の実像

本能寺襲撃の謎にせまる(四人の天下人㉚)

 

吉田兼見正室は佐竹宗実の妹であり、兼見と宗実は親戚関係にあ

りました。

佐竹氏は山城国愛宕郡高野を所領とする国人領主でしたが、織田氏
の勢力下に入り、明智光秀の与力となります。

愛宕郡高野は、吉田家の所領の北方に位置し隣接しており、佐竹、吉
田両氏の関係は密接でした。

宗実は光秀から、明智の姓と秀の偏諱を与えられ、明智出羽守秀慶を
名乗ります。このような例は他にもあり、明智猪飼野)半左衛門秀貞、
明智(三沢)少兵衛秀次らがあり、秀の偏諱織田家臣団の一員であ
ることも示し、与力としての独立性を表しています。

秀慶は天正七年の丹波八上城攻めで負傷し、吉田兼見からの見舞い
を受けています。

明智秀慶は「兼見卿記」のなかにたびたび登場し、その実在が確認で
きる光秀の家臣の一人です。

山崎の戦い後、秀吉に拝謁し、許されて丹羽長秀の家臣となります。

明智姓を名乗った者の多くは戦死したり、戦後処刑されているなかで
、兼見や細川藤孝との血縁関係から助命されたと考えられます。

秀吉にとってすでに兼見や藤孝が、都での活動を助ける有力な存在
であったことが、この事からも理解できます。

愛宕郡出雲高野神社
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